自由と責任と権利のバランス|不自由の中にこと自由がある

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自由は山巓の空気に似ている。

どちらも弱い者には堪えることはできない。

青空文庫「芥川龍之介:侏儒の言葉より」
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本当は自由なんて求めていない

「やりたいこと自由にやってます」

なんて言うと、なんかカッコ良く聞こえるかもしれません。

しかし、実はものすごく変です。

本当は皆、不自由の方を求めています。

自由の誤解

あなたはなぜ、自由を欲していますか?

どんな自由を求めていますか?

選択の自由?経済的自由?表現の自由?職業の自由?

何もしなくても、何も不自由なく生きている、そんな状態ですか?

それは単なる、わがままであって、自由を完全に誤解しています。

自由と責任と権利のバランス

その人の力量に比例する

現実的な話をしましょう。

自由には必ず、「責任」が伴います。

そして、その責任の重さに比例して「権利」が与えられます。

その権利の大きさに応じた、「自由」が与えられます。

自由とは、意のままに現実をコントロールできることであって、自由にはそれぞれ、影響を及ぼす「範囲」があります。

それをコントロールできる、力量が自分に備わっていなければ、その範囲は狭まります。

自由とは、この微妙なバランスで成り立っているんです。

経済的自由とは何か?

多くの人が求めるのが経済的自由ではないでしょうか?

「権利収入」や「不労所得」、働かずとも入ってくる収入や、十分すぎる蓄え。

しかし、これはあくまで結果であって、そこに至るまでには当然、それ相応の苦労があります。

稼ぐも稼がないも自分次第

収入をコントロールできる状態

経済的自由とは、働くも働かないも、稼ぐも稼がないも自分次第ということです。

安定した給与を手にしたいのであれば、就業規則などの不自由さを受入れなければいけません。

一方、その安定を手放せば、自由が手に入ります。

その自由は、稼がないといけないという責任が伴っています。

自分の力量が足らなければ、自由の範囲は狭くなります。

経済的自由を手にすると、誰も自分を管理しません。

自分で自分を管理しないといけませんが、とにかく自由です。

自由は山巓の空気に似ている。

どちらも弱い者には堪えることはできない。

青空文庫「芥川龍之介:侏儒の言葉より」

「山巓」とは山の頂上のこと。空気が薄く慣れてない人は耐えられません。

だから皆、不自由を求めるんです。

出社すればやることがあるという状況は本当に有難い状況です。

自由と覚悟

では、不自由の中に自由はないのでしょうか?

独立しない限り、自由は手に入らないのか?

そんなことはありません。

不自由の中の自由

先ほども言いましたが、要は、責任と権利のバランスです。

組織の中にいれば、自分から積極的に責任を取りにいくことはできます。

正常に機能している組織であれば、そこに必ず権利を与えてくれます。

それに比例した自由をあなたは手にします。

そこで結果を出せば、さらに大きな責任を与えてもらえます。

要は、その責任を受け入れる覚悟があるかどうかです。

自由をどこに求めるか?

独立しても不自由さはあります。組織にいても同じこと。結局、自由って不自由さの中にあるんですね。

大事なことは、その山を登る覚悟ではないかと思います。

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